小学1年生 登校拒否だった私の決断
「迷い」と「決断」
私は今30歳。
この30年間で迷うことはたくさんありました。
その時々で、決断してきたから今があるのだと思います。
自分の人生で、一番最初に「迷って、決断」した時はいつだったのだろうと思い返してみました。
たぶん「買ってもらうお菓子」で迷ったり、「何で遊ぶか」で迷ったりした事はたくさんあったと思うけれど、自分で本当に迷って決断した時は、小学1年生の時の事だと思います。
小学1年生の時、私は登校拒否をしていました。
友達もたくさんいたし、嫌いな先生がいた訳でもありません。
お母さんから離れる事がとてつもなく不安で、1人で何もかもしなければいけない恐怖から、毎日泣いて、全力で小学校に行くことを拒んでいました。
毎日朝になると「行きたくない!」と泣き叫んでいる私を、母は手を繋いで小学校まで歩いてくれました。
小学校まで子どもの足で歩いて30分もある道のり。
泣き続ける私を、時には言葉でなだめ、時には強引に引っ張りつつ、母は付いてきてくれました。
小学校に到着したからと言って、泣き止む訳ではありません。
「行かない!中に入らない!」と、またそこでごね、周りに集まってきた友達と一緒に何とか小学校内に入る、という毎日の繰り返しでした。
こうして今考えると、母の苦労は計り知れません。
でも、当時はそんな母の気持ちは考えられず、どうにか小学校に行かなくて済むようにならないか、ということにしか考えが及びませんでした。
そして思い付いたのが「仮病」です。
「お腹が痛いから、今日は学校に行かない」
実際は痛くもなんともなかったけれど、いかにも痛そうな表情(自分的には)をして、母に告げました。
「本当にお腹が痛いの?学校行かないの?」
何度か母は問いかけましたが、私は仮病を貫き通しました。
「それならこの薬を飲んでおきなさい!」
母は薬箱に入っている正露丸のビンを指差しました。
なんだか本当にお腹が痛くなってきた気がしたので、試しに飲んでみようか…
でも苦い匂いがするし、仮病で薬を飲んだらどうなるんだ…という不安から、立ち尽くす私。
何十分もその場にいた気がしますが、結局、正露丸は飲めませんでした。
体調が悪い設定なので遊ぶ訳にもいかず、窓から外を眺めたりしているうちに、登校時間がだんだんと過ぎて、1時間目が終わり、2時間目になり…
今日は行かなくて良いんだ!という気持ちから、だんだんと気分が明るくなってきて、私は遊び始めることにしました。
そんな時に見た母の後ろ姿。
椅子に腰かけ、頭を抱えて、ため息をついていました。
その時に思いました。
私自身は小学校に行かないことがとても嬉しいけれど、母にとってはとても悲しいことなのだと。
いつもニコニコしている母の初めて見るその姿は、とてもショックだったことを今でも覚えています。
それでもやっぱり小学校には行きたくなくて…
でも行ってみると、なんとか母がいなくても過ごせることが自分でも分かってきて…
小学校に行くことは、嫌な事ばかりではないと思う事が増えてきて…
何かきっかけがあったわけではありません。
たぶん日々の積み重ね。
ある日の下駄箱で私は母に伝えます。
「2年生になったら、ちゃんと学校に行くよ」
その時、母は私の言ったことを信じたかどうかは、分かりません。
「ほんとう?」と、微笑んでいました。
泣きながら連れて行かれる日は減って…
小学2年生になると、友達と一緒に小学校に行けるようになりました。
「行きたくない」と思う日が無くなった訳ではありませんが、その気持ちを抱えたままでも登校ができるようになりました。
それ以降は、ほぼ無遅刻無欠席の皆勤賞。
生前、母は「あの時は大変だった。なんでうちの子だけ?と思ったこともあった」という話をしていました。
でも、私はあの時の登校拒否は無駄では無かったと思っています。
「行きたくない」と逃げる私もいましたが、「行けるようになった」強い自分もいることが分かったからです。
そして今、自分の子どもが「幼稚園に行きたくない」と泣くことがあっても、「そりゃそうだよね~」と寛大な気持ちで受け止めることができています。
これも自分の経験があるからこそだと思います。
「小学校に行くか行かないか」という迷いと、「小学2年生になったら行く」という決断のお話でした。
読んでいただき、ありがとうございました。
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